——食パン。
小麦粉やライ麦粉といった穀物粉に水、酵母、塩などを加えて作った生地を発酵させ、大きな長方形の箱型の型に入れて焼いたパンのこと。
「食パン」というのは日本の造語であり、元来は17世紀に生まれたフランス発祥のパン・ド・ミーと呼ばれるフランスパンの一種である。
食パンの登場により、人々は手軽にパンを楽しめるようになり、食生活はより豊かになったと言えよう。現代人の我々も多分に漏れず、その恩恵を受けている。
まさに、偉大なる発明だ。
そこで。
今回スポットを当てる発明は、こちらの「食パン」
ではなく、
食パンの袋を留めるアレ
である。このアレの発明にはどんなストーリーが隠されているのか。
さあ。
歴史が動いた瞬間を、いま紐解こう。
――食パンの袋を留めるアレ。
正式名称は「バッグ・クロージャー」と呼ばれるが、その認知度は非常に低い。
さて、食パンの前身となるパン・ド・ミーの発明が17世紀ということであったが、バッグ・クロージャーはどうだろうか。
意外にも同じくその発明は古く、歴史は中世ヨーロッパまで遡る。
17世紀初頭、パン・ド・ミーは一般的に普及され、日常食として平民から貴族まで幅広く愛されていた。
豊かな食生活の毎日。
長い平和が訪れていた。
だが。
この時代に、大いなる厄災が降り掛かってしまう。
ペルクナスの怒り
[l’ira di Perkunas]
およそ150年間続く、超長期雨期の到来である。その範囲はヨーロッパ全土まで及び、当時の人々はこれを神の仕業だと恐れ、“ペルクナスの怒り”と名付けた(※)。
歴史の教科書でも取り上げられることの多い事象である。
(※ペルクナスはリトアニア神話で言及される雷雨を司る神の名称)
ヨーロッパは、比較的乾燥した気候が多い土地柄だ。
しかし、終わりなく降り続ける豪雨はその環境を一変させた。
それは農作や食生活にも影響を及ぼし、主食であったパン・ド・ミーは次々とカビに侵されていき、飢餓に苦しむ人々が急速に増大していった。
また、宗教的思想が強かった当時では、カビたパンを悪魔の所業と考え、カビを引き起こしてしまった住民共々家ごと焼き払うといった処罰も横行していた。
このままでは――。
飢餓に苦しむ人や、いわれなき罪で処刑される者が増えていくだけだ。
そこで立ち上がったのが、この男。
マクスウェル・J・クロージャー
[Maxwell Johan Closure]
今回の物語の主人公である。
マクスウェルは気象・天文学者としてフランス国に従事しており、パリのフランス海軍天文台で天文官を務めていた。
その専門的知見から、“ペルクナスの怒り”が長期に渡る雨期だということをいち早く見抜き、何らかの対策を講じねばと思慮していた。
特に、食の問題。パン・ド・ミーを巡る一連の騒動からまずは解決するべきだとマクスウェルは考える。
当時のパン・ド・ミーの保存環境はお世辞にも良いとは言えず、むき出しで保管庫に晒されている状態が一般的であった。
パン自体が湿気を纏わないよう、袋に包んだ上で密閉するための「留め具」が必要だ。これを開発し、一般家庭に普及するまでに至れば、カビ問題を解決できるのではないか。
マクスウェルの頭の中に、一筋の光明が差し込んだ。
発明家という側面を持つマクスウェルは、幼少期から物事を深く考えることが好きな性格であった。
一度考え出すとどんな場所でも動かず、よく周囲の人間を困らせていたという(そのため、「石像」というあだ名をつけられていた)。
上記画像は、母・オリビアと植物庭園を訪れたにも関わらず、急に考え込みだしたマクスウェルのエピソードを基に再現した肖像画である。
そんなマクスウェルは敬虔なクリスチャンとしても知られており、今回の発明にもキリスト教が深く関わってくる。
ここで、マクスウェルが残した手記の一節を紹介する。
私が発明に至る道筋には、いつもイエス・キリストが側にいる。
(中略)
「留め具」の構造を考えた時、私は真っ先に『天国への門』を思い浮かべた。これは天啓ともいえるだろう。
-天文学者の友人、シャルル・メシエに宛てた手紙の一節-
(Extrait d’une lettre à l’ami astronome Charles Messier)
「天国への門」とは、キリスト教で言及される『神々の門』とされ、死者はこの門をくぐって天国に行くと信じられていた。
「天国への門」の鍵はイエス・キリストに従った使者の一人、ペトロがもっているといわれ、歴代のローマ教皇はこのペトロの後継者とされている。
上記画像は、イタリア・フィレンツェの中心にあるサン・ジョヴァンニ洗礼堂内、ドゥオモの真正面にある東側の扉。通称「天国の門」である。
マクスウェルは「天国への門」から着想を得、門の形状を模した留め具のイメージを固めていった。
この時の様子を見ていたフランス海軍天文台の助手曰く、マクスウェルは三日三晩、飲まず食わずで動かないまま思案していたという。正に石像である。そしてちゃんと仕事はするべきである。
留め具の細部までイメージが固まった頃、マクスウェルはその足でとある人物の元へ向かった。
ローマ教皇・グレゴリウスへの謁見である。
ペトロの後継者とされるローマ教皇に対し、天国への門を模した道具を作ることへの許しを乞いに行ったのだ。根回しはしっかりするタイプのマクスウェルである。
“ペルクナスの怒り”に始まる災禍に憂いていたグレゴリウスはこれを快諾。必要であれば物資も援助する取り決めをし、マクスウェルはローマ教皇の協力を仰ぐことに成功した。
ただ、ちゃんと仕事はしてねとお叱りも受けてしまった。
次にマクスウェルは、チェス仲間であったセルゲイ・ボナパルトに声をかける。
“侯爵 -Marquis-”の爵位をもつセルゲイ家は、フランスにおいて鋳造技術で一財を成した名家である。
そう。
マクスウェルは、いよいよ「留め具」の製作に取り掛かったのだ。
順調に進むと思われた製作工程だが、ここで一つの問題に直面してしまう。
未だかつて経験したことのない湿度により、鋳造が全くうまくいかなかったのだ。鋳造品質は、外気の温度・湿度によって大きく左右されてしまう。
この状況に陥り、セルゲイはこのような言葉を残したと、史実には記されている。
失敗に次ぐ失敗。
一度は頓挫しかけていた留め具製作であったが、ここで事態は一変する。
セルゲイのもつヨーロッパ全土に及ぶ鋳造ネットワークにより、北はノルウェー・トロンデラーグの村には、独自の鋳造技術があるという情報を得る。
その村には、神樹と呼ばれる木があり、成る実には神秘の力が宿るとされ、霊薬として崇められているそう。
トロンデラーグ村では、磨り潰した実を鋳造過程で混ぜることで、いかなる状況においても品質の変わらない鋳造を行っているとのこと。
この報を受け、マクスウェルは考える。
なんとも信憑性が不確かな話だ。フランスからノルウェーに向かうには、危険な航海も伴う。
しかし、事態は急を要する。困窮する民をこれ以上見てはいられない。
この男、マクスウェル・J・クロージャー。
――その目に、迷いはなかった。
早速マクスウェルはローマ教皇・グレゴリウスに協力を要請。ノルウェーまでの航海に必要な帆船を2船と、人員を手配してもらう。
更に、気象学の観点から雨期が弱まる時期を特定し、航海のスケジュールも立案。
潮流の関係から、フランス・パリの港を出港後、スコットランド・アバディーンに寄港。その後、ノルウェー・トロンデラーグへ向かうというルートだ。
この時、マクスウェルは既に67歳。老体には非常に厳しい航海ではあるが、マクスウェルの胸中は使命感に燃えていた。
道中、クラーケンに襲われ、帆船が1船と乗組員20名を失うことになったが、崇高なる目的の前では些末な問題と言えよう。
必ず、成功してみせる。
マクスウェルとセルゲイは、強く心に誓った。
紆余曲折ありながらも、トロンデラーグ村へ到着したマクスウェル一行。
セルゲイが事前に手紙を送っていたので、話は滞りなく進んだ。セルゲイもまた、根回し上手なタイプであった。
すぐにマクスウェルは、神樹へ案内してもらうことに。
ンクァ=トゥチュの木
[Tre av Nqua=Torche]
ンクァ=トゥチュ。それはノルウェー語で、“明星に煌めく星々の声”を意味する。
言葉にはできない神々しさを感じ、マクスウェルは思わず息を呑む。
そしてこれが――。
ンクァ=トゥチュの実
[Frukt av Nqua=Torche]
神樹に成る実である。
ンクァ=トゥチュ。それはノルウェー語で、“緋色の目をした精霊”とも意味するそうだ。
マクスウェルは村の長に感謝を述べ、ンクァ=トゥチュの実を採取。落ち着く間もなく、フランス・パリへ帰還した。
今までの失敗は何だったのだろうか。
そう思えるほど、不思議なほどに鋳造は上手くいった。霊薬の力が効いたのだ。
これがヨーロッパを救う希望だと信じ、マクスウェルは自身の名をあしらってこの「留め具」に名前をつけた。
「バッグ・クロージャー」の、完成である。
その後、有志を集い量産体制に移行。
バッグ・クロージャーは、一般家庭にまで広く普及されることとなった。
マクスウェルの偉業は、結果として飢餓という食問題の解決に大きく寄与。“ペルクナスの怒り”による被害の拡大を食い止めることに成功した。
マクスウェルはその後、ヨーロッパ全土の英雄として称賛され、ロンドン王立協会の外国人会員となり、パリとロンドンを往復する日々を送った。
これが、私達が目にする機会も多い「バッグ・クロージャー」発明の裏側である。現在、その正式名がほとんど知られていないことは何とも皮肉な話である。
コンビニでも、スーパーでも。
食パンを見かけることがあれば、少しだけ思い出してほしい。彼、マクスウェル・J・クロージャーの名を。
マクスウェル・J・クロージャー
[Maxwell Johan Closure]
晩年は拠点をロンドンに移し、天文学の権威として分野の発展に大きく貢献。また、バッグ・クロージャーの製法特許は取らず、一般に公開したことで商人組合から批判を受けたこともあった。
「私は金にたかる商人ではない。誇り高き研究家であり、発明家だ。」マクスウェルの偉言として、フランス海軍天文台並びにロンドン王立協会に、この言葉が刻まれた石碑が立てられている。
没年82歳。生涯を通じて、最後まで妻をめとることはなかった。
セルゲイ・ボナパルト
[Sergueï Bonaparte]
新たな鋳造技術を基に、セルゲイ家の資産を更に大きくしていった。また、トロンデラーグ村に莫大な融資を行い、神樹の生産に努めた。マクスウェルの鋳造製法の一般公開に対し、何も言うことはなかった。
マクスウェルとは、良きチェス仲間としてチェスを興じ続けた。
没年66歳。子宝に恵まれ、13人の子と21人の孫に看取られた。
グレゴリウス教皇
[Pape Grégoire]
ローマ教皇としての任期はわずか6年間であったが、教会改革の意欲にあふれた有徳なる聖職者ぶりに、国民からの信頼は厚かった。
マクスウェルの人柄に惹かれ、彼がフランスを離れた後も、手紙で交流を続けていた。
没年73歳。国葬では、歴代の教皇の中で最も多くの国民が集ったと史実には残されている。
誰?
[Qui?]
本当に誰?
架空偉人伝 #1
〜偉大なる発明をした男〜
完
参考文献:
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